こんにちは、あらいぐまです。
今回は米澤穂信さんの「王とサーカス」を紹介したいと思います。
単純にミステリーとして面白いのはもちろん、作中に出てくる言葉が刺さります。
報道の意味とは何か。
知ることの意味とは。
実は、この本は1か月前に読み終わりました。しかし、次の本を早く読みたい欲求に勝てず、さらっと手書きの読書ノートを書き、ここに載せるまで時間が経ってしまいました・・・
積読も増えていますが、読み終えた本の記録をつけることも積みあがっています。
インプットだけでなく、アウトプットも大切だとは分かっているのですが、なかなか手が進みません。
さて、本の紹介に戻ります。
「王とサーカス」のあらすじです。
海外旅行特集の取材のためにネパールに訪問した大刀洗万智。
ガイドを地元の少年に頼み、取材をしている中、ネパール王室で王族殺人事件が起きる。
混乱するネパールの取材を始めた彼女だが、取材をした相手である軍人が何者かによって
殺害されてしまう。次に狙われるのは、大刀洗なのか。誰が何のために殺害したのか。
その真相とは・・・
娯楽としての報道
記者である大刀洗に向けて、ラジュスワル准尉が話した言葉が印象に残っています。
私は、この言葉が、この小説の核となる部分だと思いました。
自分に降りかかってくることのない惨劇は、この上もなく刺激的な娯楽だ。
意表を衝くようなものであれば、なお申し分ない。
恐ろしい映像を見たり、記事を読んだりした者は言うだろう。考えさせられた、と。
そういう娯楽なのだ。
米澤穂信「王とサーカス」p199
遠くで起こった惨劇=娯楽
前に何かの本で、「遠くの国で起きた内戦よりも自分の口内炎の方が気になる」と書いてあったのを思い出しました。
自分に身近なことの方が、人々にとっては気になる存在なのです。
自分に身近でない場所で起きた悲惨なニュースとは、必ずしも遠くの国である必要はなく、国内の事件でも言えることです。
そんなニュースを日々見るたび、「悲しい事件だ」と思うものの、すぐに別な事件で覆い隠されてしまいます。
私は、悲惨なニュースを見るたび、「当事者だったらどんなに辛いことなのか。
事件に関係のない私たちはすぐに事件のことを忘れてしまうけど、当事者にとっては一生忘れられない出来事になるのだろうな」と想像してしまいます。
こうやって考えたりするのも、ラジュスワル准尉に言わせれば、娯楽として消費していると言えそうです。
ただ、すべての事件を自分事として捉えるのは不可能だし、そんなことしたら心が持ちません。
なので、ラジュスワル准尉は報道することの意味を大刀洗に問います。
報道という消費される娯楽を発信する意味とは?
この問いに大刀洗は最後このように考えます。
「わたしは、ここがどういう場所なのか、わたしがいるのはどういう場所なのか明らかにしたい。」
BBCが伝え、CNNが伝え、NHKが伝えてなお、わたしが書く意味はそこにある。
幾人も、幾百人もがそれぞれの視点で書き伝えることで、この世界はどいう場所なのかがわかっていく。
米澤穂信「王とサーカス」p451
自分が生きている世界がどういう場所であるか知りたい。
報道がなければ、自分が生きている世界で何が起きているのか分からない。
悲劇が消費される側面も確かにあるが、世界を知るために報道は必要である。
ネパールで実際にあった王族殺人事件
この小説には、ネパールで実際に起きた王族殺人事件が登場します。
2001年6月1日、ネパールの首都カトマンズにあるナラヤンヒティ王宮にて、当時の国王であるビレンドラ国王をはじめとする王族9名が、国王の息子であるディペンドラ皇太子により殺害されるという事件が起きました。
犯人とされるディペンドラ皇太子も自殺を図り、3日後に死亡しています。
上に記載しているのが、この事件で犠牲になった王族です。王の息子で唯一生き残ったのが、ギャネンドラでした。
この事件、不可解な点がいくつか存在します。
・事件当時、ギャネンドラ以外の王族は全員集合していた。
・ギャネンドラの家族だけが全員生き残った。
・銃による自殺であるが、弾丸が後部から入っていた(実行するには無理な体勢をとらなければならない)
・銃弾は右利きだったディペンドラの左側頭部から右側頭部にかけて貫通していた。
・複数の銃器が発見されたため、複数人の犯行ではないかと疑問が生じる。
・死亡した王族の葬儀が性急に行われた。
これら不可解な点がありますが、事件の真相は何だったんでしょうか。
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